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熱をもて。誠をもて。 北里柴三郎

北里柴三郎

資料提供/ 学校法人北里研究所

明治時代、世界の医学史に偉大な足跡を残す日本人がいた。 細菌学者、北里柴三郎博士。ドイツへ留学し、細菌学の第一人者であるロベルト・コッホ博士のもとで研究を深める。当時、人類はさまざまな感染症と闘っていた。細菌学は最先端の学問領域であり、ドイツが研究の先進国だった。そのドイツで、北里は不可能といわれていた破傷風菌の純粋培養に世界で初めて成功し、さらに破傷風の血清療法を考案する。この技術はジフテリアの血清治療に応用され、多くの命を救った。北里は「世界の Kitasato」となった。

一八九一年(明治二四年)のある日、ドイツ留学中の北里を、ストラスブルグ大学に留学中の生化学者、荒木寅三郎(後の京都 帝国大学総長)が訪ねた。そのとき、北里はこう言って若き友人を励ました。「人に熱と誠があれば何事も達成する。世の中は決して行き詰まらぬ。もし行き詰まったとしたら、それは人に熱と誠がないからだ。」研究への取り組みや人との交わりに対する北里の信念だった。

近代国家の建設に邁進していた明治時代の日本。留学生たちは皆、祖国のために貢献したいという気概にあふれていた。北里も、留学の延長まで認めてくれた国に感謝し、恩返しをしなければと考えていた。そして、ケンブリッジ大学など欧米の名門大学からの招きをすべて断り、祖国のために働こうと帰国する。

帰国後、北里は立ちはだかるさまざまな障壁と闘いながら、ドイツのコッホ研究所やフランスのパスツール研究所と肩を並べる伝染病研究所を設立した。また、伝染病予防法の制定にも力を尽くし、日本の近代医学の基礎を築いた。北里のよき理解者であり支援者だった福沢諭吉の恩に報いるために、慶応義塾大学医学部を創設し、さらに日本医師会を設立するなど、人材の育成や医療行政の整備にも努めた。

人を束ね、人を率い、圧倒的なパワーで医療の進歩と新しい国 づくりに貢献した北里柴三郎博士。二○一三年元旦。博士は、激動の時代の日本を、きっとこの言葉で激励しているにちがいない。「熱をもて、誠をもて」と。

(監修 / 北里英郎 先生 北里大学医療衛生学部長)

行き詰まるのは自分自身で世の中は決して行き詰まるものではない

熱意と誠意があれば何事も達成する

北里柴三郎(1853-1931)

北里柴三郎博士
(1853-1931)
資料提供/ 学校法人北里研究所

北里柴三郎は国費の留学生としてドイツへ渡り、細菌学の第一人者ロベルト・コッホのもとで研究生活を送っていたが、そこへ東京帝国大学医学部の後輩である荒木寅三郎が訪ねてきた。1891年、北里38歳、荒木は24歳のときだ。若い荒木は、当時ドイツ領であったストラスブルグ(現在はフランス領ストラスブール)の大学に留学して3年目、異国の地での研究生活に疲れ果て、行き詰まりを感じて北里を訪ねたのだ。

「人に熱と誠があれば何事も達成する。世の中は決して行き詰まらぬ。もし行き詰まったとしたら、それは人に熱意と誠意がないからだ」。この北里の励ましに荒木は大いに発奮して研究に打ち込む。1895年に帰国してからは、日本における生化学の先駆者として指導者の道を歩き、京都帝国大学の総長にまで上りつめた。

北里の体験から出た言葉

北里考案の嫌気性菌培養セット
                    資料提供/ 学校法人北里研究所
                    亀の子シャーレ(複製品)北里が工夫した実験器具のひとつ。破傷風菌の純粋培養を可能にした。

負けん気の強い北里は、人前で弱みを見せることはなかったと思われるが、ドイツへ渡った当座は、決して留学生活を楽観できる状態ではなかった。所長のコッホからは「少しばかりドイツ語ができる日本人」という程度の認識しか得られていなかったし、同僚からも、背が低く風采の上がらない東洋人とあなどられていた。それを北里は誰よりも長時間、熱心に働き、実験器具に創意工夫を凝らすなど、ヨーロッパでは勤勉さを誇るドイツ人に倍する働きをみせ、コッホから与えられた課題に対して、着実に成果を挙げ、信頼を得るとともに、多くの所員のなかで、頭角を現していったのだ。

「熱と誠」で、研究所の戦力となる留学生としての立場を獲得した結果、破傷風菌の純粋培養に成功し、また破傷風の血清療法を打ち立てるという世界的な成果をあげた自らの経験から、荒木を奮い立たせようという、まさに親身の言葉であった。

ドイツに多く集中した日本の医学留学生

医学留学生の多くは帰国後、医学指導者に

北里と同時期のドイツ留学医学生

北里と同時期のドイツ留学医学生
中列の右から2番目が北里。中列の左端は森林太郎(森鴎外)。
資料提供 / 学校法人北里研究所

この写真は、北里がドイツ留学中であった1887年、日本人医学留学生の集まりがあった折りの記念に撮られたものだ。東洋の小国にすぎない日本から、一時にこれほどの医学生がドイツへ留学していたのは意外とも思えるが、彼らの大多数は帰国後、東京帝国大学を中心とする大学教授、陸軍省医務局長、病院長などになり、日本医療の近代化に大きな貢献をしている。

ドイツ医学を選んだ明治政府

明治維新当時、政府は医学をどの国の方式に合わせるかの選択をしなければならなかった。それは東京帝国大学医学部をどの方式にするかということであり、大学内に複数の流派が生まれたのでは、後に混乱の種となりかねないからだ。しかし薩摩派が推すイギリス医学と、長州派が推すオランダ医学のどちらをとるかの議論は尽きず、結局政府は、どちらにもつかないドイツ医学を採用したといわれている。*1

ドイツに医学留学生が集中したのは、このためである。政府の決め方の是非はともかく、結果としてドイツ医学が世界一になったことから考えれば、その選択は当を得たものであったといえる。

(*1 安田健次郎:慶應医学84(2), 69-84, 2007より)

日本と同じ若い国としてドイツを模範に国を整備した明治政府

明治憲法をはじめ多くの分野の学問をドイツに学ぶ

ドイツから大きな影響を受けたのは、医学ばかりではなかった。明治維新から間もない1871年、プロイセン国王を皇帝に戴くドイツ帝国が樹立され、統一国家ドイツが誕生した。ヨーロッパの先進国、しかも日本と同じ立憲君主制の国づくりを、期せずして勉強する機会に恵まれた明治政府は、1882年に伊藤博文を中心とする調査団をヨーロッパに派遣し、ドイツの憲法学者らの講義を受けさせた。このため大日本帝国憲法は、プロイセン憲法がお手本となった。その他の法律にもドイツの影響は大きく反映され、日本の民法や刑事法などの法律には、現在に至るまでドイツの法律の影響が残っているといわれる。*2

また明治政府はさまざまな分野の学者を招き、「お雇い外国人」として教職につかせた。太古の昔、日本に住んでいたゾウの一種、ナウマンゾウの化石を発見したナウマン、「君が代」に伴奏をつけた作曲家・エッケルトもドイツのお雇い外国人であった。東京大学で医学を学んだ北里も、ドイツのお雇い外国人であるベルツに教わっている。

このようにドイツをはじめ、イギリスやフランスなど、西欧先進国の影響を受け、日本流に消化する形で、日本は近代化を進めていった。

(*2 外務省:日独交流150周年パンフレット, 2010より)

外国文化の吸収を助け、近代国家建設の原動力となった日本の教育水準の高さ

外国人から先進的な学問や文化を直接教わったのは、留学生や大学生など一部の人間であったが、西欧文化はたちまち庶民にまで浸透していった。その主因は、庶民教育の普及にあるといわれている。江戸幕府の時代でも、武家社会ではある程度の下級武士にまで藩校を開放して優秀な人材を育成することが多く、また町人や農民の社会には寺子屋が普及していた。

このため義務教育制度が未整備であった明治維新前後でも庶民の識字率は高く、ヨーロッパの先進国と同水準であったとみられる。*3
社会的な階級を問わず西欧文化が浸透していった結果、「文明開化」は、庶民の間でも大きなトレンドとなったのだ。


明治期は、アジア諸国のほとんどが西欧の圧倒的な軍事力、経済力に抗することができず、植民地となったり、租借地を提供したりする形を余儀なくされた時代だ。小さな島国である日本がそれをまぬがれ、独立を維持できたのは、急速に西欧文化を取り入れ、近代国家としての体裁を素早く整えたことが大きく寄与しているのだと考えられている。

(*3 Dore R P: Education in Tokugawa Japan, 1965より)



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