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人に報いる。恩に報いる。北里柴三郎/福澤諭吉

北里柴三郎/福澤諭吉

資料提供/ 学校法人北里研究所 北里柴三郎記念室

一八九二年(明治二五年)の秋、北里柴三郎は三田の福澤諭吉邸へと続く道を歩いていた。

福澤はすでに慶應義塾に大学部を設け、偉大な教育者として名を馳せていた。一方の北里は、ドイツ留学で破傷風菌の純粋培養に成功し、さらに破傷風の血清療法を開発するなどの世界的な業績を挙げた後、帰国し、内務省衛生局に復帰していた。しかし、復帰とは名ばかりで、研究所はおろか研究室さえも与えられず、もう半年近く無為な日を過ごしていた。そんな折、内務省のかつての上司から、「福澤諭吉に会ってみろ」と勧められたのだ。

北里の話を聞いた福澤は、「この男に活躍の場を与えないのは国家の損失だ」と悟った。そしてその場で、「とにかく小さくても仕事を始めて、それから方策を考えればいい。私が芝公園に借りている土地があるから、そこに必要な建物を造ってスタートしようじゃないか。毎月の研究費も私が負担するから、費用を計算してくれないか」と促した。後で分かったことだが、その土地は、福澤が子女の将来のために用意していたものだった。

福澤の大きさに圧倒され、勇躍の気構えを整えた北里は、そこに六部屋の小さな研究所を造った。そして、それを足場に研究陣を拡充し、やがてヨーロッパの大研究所にも比肩する北里研究所を設け、日本の伝染病研究の中心としての地位を築いていった。

福澤が没して久しい一九一六年(大正五年)、北里は慶應の鎌田塾長から、医学科を新設したいとの相談を受けた。北里は即座に賛成した。「福澤先生から受けた恩顧に報いるのは、この時である」と。設立委員会の中心となり、準備を進めていった。

北里を知る前、福澤は慶應に医学所を設立したことがある。だが、経営不振のため短期間で閉鎖を余儀なくされていた。それ以来、医学科の設立は福澤の悲願であったが、生前にその夢を果たすことはなかったのだ。

そのことをよく知っていた北里から、「もし学校に経営不振が起こった場合には、北里一門を挙げて支えるつもりだ」と覚悟の表明があったことを塾長は述懐している。

一九一七年(大正六年)、北里は初代医学科長に就任した。そして十年余の在職期間中、給与その他一切の報酬を固辞し、報恩の精神を貫き、無償でその任にあたったという。

(監修/北里英郎 先生 北里大学医療衛生学部長)

人生の岐路に福澤と出会い、進むべき方向を見つけた北里

祖国で感染症と闘いたい

北里柴三郎(1853-1931)

北里柴三郎
(1853-1931)
資料提供/学校法人北里研究所

1892年(明治25年)、ドイツへ留学していた北里柴三郎は意気揚々と帰国した。細菌学と感染症の研究で有名なコッホの研究所で、世界初の破傷風菌の純粋培養に成功、さらに世界初の血清療法を確立し、外国人として初めてプロフェッソル(大博士)の称号を授与されるなど、実績は華々しいものだった。彼はイギリスのケンブリッジ大学やアメリカの複数の大学からも好条件で招かれたのだが、国費での留学を許してくれた祖国へ帰り、感染症と闘うことで恩義に報いたいという気持ちは強く、この帰国となったのだ。

帰国した北里に居場所はなかった

福澤諭吉(1835-1901)

福澤諭吉
(1835-1901)
蘭学者、思想家、教育者。
慶應義塾創設者。専修大学、
一橋大学の設立にも関与した。
資料提供/学校法人北里研究所


長与專斎
(1838-1902)
文部省(のち内務省)医務局長、
東京医学校(現・東京大学)校長
などを歴任。

しかし北里が帰国しても、日本の学界の動きは鈍かった。北里は内務省に復帰したが、研究所はおろか研究室さえも与えられず、半年近くも不遇をかこっていた。北里は国民の健康を守るためには伝染病研究所が必要だと説いて回ったが、それを実現するには相当の時間がかかりそうな雲行きであった。

「このまま何もやらせてもらえないのなら、もう一度海外で研究活動をした方がいいのか…」。心に迷いを生じた北里が、内務省衛生局のかつての上司、長与專斎に相談すると、「まあ、そう言うな。福澤諭吉が会いたいと言っているから、とにかく会ってみろ」と勧められたのだ。長与も伝染病研究所建設に動いていたので、いらだつ北里の胸中は察しがついていた。

北里が福澤邸を訪問したのは、その年の9月末か10月初旬のことと思われる。そしてこの出会いが北里に進むべき方向を示し、その後の人生を大きく変えることになる。

土地も、建物も、研究費も…福澤に見込まれた北里は、物心両面から援助を提供される

明確に示された北里の進路

伝染病研究所

伝染病研究所
資料提供/学校法人北里研究所

北里から一通りの話を聞いた福澤は、「この際、まず仕事を始め、それから方策を立てたらよい。私には幸い、芝公園に借りている土地があるから、そこに必要なだけの家屋を構えて始めようじゃないか。また毎月必要な研究費も私が負担するから、どれだけ掛かるか計算してもらいたい」と提案した。福澤が提案した土地は、自分の子どもたちの将来のために用意していたものだった。

遠くにかすんでいた研究所が、福澤のひと言で目の前に現れた。そして北里の進むべき道も、このとき明確に浮かんできたのだ。1892年(明治25年)、2階建て・上下6室という小所帯ながら日本初の伝染病研究所はスタートした。また福澤は広尾に結核専門病院を建設し、その運営を北里に委ねた。このとき福澤は、経営感覚に優れた田端重晟(しげあき)という人物を事務長として送り込んでいるが、彼は後日大きな役割を果たすことになる。

前もって福澤に会っていた長与

北里に福澤と会うように仕向けた長与は、その少し前に福澤と面会している。そして北里の研究業績を語り、「これだけ世界的に評価されている学者に研究の場を与えないのは日本の恥である」と嘆いた。福澤はそれに同意し、「北里の研究がそのように重要なものなら、自分の私財をなげうって助けたい」と申し出ていたのだ。

長与は研究所設立の陰の功労者ともいえよう。

ヨーロッパと肩を並べる北里研究所完成までの道程

伝染病研究所は拡張され国立となったが、北里は間もなく辞任する

芝区愛宕町の新屋舎

芝区愛宕町の新屋舎
資料提供/学校法人北里研究所

最初の伝染病研究所はすぐ手狭になったため、1894年(明治27年)、研究室、病院、事務室、培養室など8棟からなる新たな研究所を芝の愛宕町に建設し、移転した。この研究所は1899年(明治32年)、北里を所長に置いたまま国営に移され、内務省が管轄することになった。

福澤はこのとき、「国立にするのは構わないが、政府はいつ気が変わるかもしれないから、決して油断せず金を貯えておくように」と忠告した。福澤はその2年後に他界する。

そして福澤が心配したことは、やがて現実のものとなる。1914年(大正3年)、北里の関知しないところで、この国立伝染病研究所を内務省から文部省に移管することが決められたのだ。文部省に移管されれば、研究所は東京帝国大学の支配下に入る。それに納得できない北里は即座に所長を辞する。北里は辞任に際し、所員に「ますます学問のため奮励されることを望む」と語りかけた。しかし研究員たちは全員が北里とともに辞職してしまった。北里を中心とした研究所は、ここで四散してしまうかに思われた。

自分たちの手で研究所を建設する

この辞職騒動のさなか、結核専門病院の事務長をしている田端重晟が、北里のもとに帳簿を持ってきた。それを見ると、驚いたことに彼が腕を振るって蓄えた莫大な資金が記されていた。福澤が世事に疎い学者集団を心配し、経理に強い田端を送り込んだことが、ここで見事に生きたのだ。福澤は死してなお北里を守り続けたともいえよう。「自分たちの手で研究所を作るんだ!」。気運は一挙に高まった。

1915年(大正4年)、北里研究所は結核サナトリウムの空き地を利用して建設された。本館の外観はドイツのコッホ研究所を模しており、ヨーロッパの大研究所にも見劣りしない立派なものになった。そして北里研究所は、日本の伝染病研究の中心として多くの実績を挙げていったのだ。

北里研究所本館

北里研究所本館
資料提供/博物館 明治村

北里のおもな門下生とその業績

「恩顧に報いるのはこのとき」慶應義塾大学医学部設立に尽力した北里

給料をはじめ一切の報酬は受け取らない

創設時の慶應義塾大学医学部

創設時の慶應義塾大学医学部
資料提供/学校法人北里研究所

1916年(大正5年)、慶應の鎌田塾長から医学科asterisk設立の相談を受けた北里は、すぐに学校の形態、費用など具体的な話を進め、特別委員として設立準備にあたった。「福澤先生から受けた多年の恩顧に報いるのはこのときである」と決然たる思いに突き動かされるように、一心に準備を進めたのだ。北里の決意のほどを、塾長はこう書き記している。

「北里は、もし学校の経済不如意の場合には北里一派の各自が自労自活して大学に貢献するを辞せぬ覚悟であるということで、その熱意は実に敬服に耐えない」。

こうして慶應義塾医学科は翌年には設立を果たし、北里は初代学科長となった。その就任にあたり、北里はひとつ条件を出した。それは、医学科創設と医学科長就任は福澤の恩義に報いるためのものなので、給料その他の報酬を受けることは一切できないというものだった。実際、北里は1928年(昭和3年)に学部長を辞するまで、その約束を守り続けたのだ。

*「慶應義塾大学医学部」の名称は1920年の大学令により改称されたもので、創設時は「慶應義塾医学科」であった。



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