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明治政府の命により香港に渡っていた北里柴三郎は、思わず声をあげた。
「これだ、ついに発見したぞ、ペストだ」。それは一八九四年六月一四日のこと。
長年に亘(わた)り人類を苦しめ多くの命を奪ってきた、ペストの正体を暴いた瞬間だった。
一説には古代エジプトやローマの時代からすでにあったといわれるこの疫病は、感染力や致死率の高さもさることながら、なにしろ原因がわからず、姿が見えないため大いに恐れられた。そのペストが一八九四年に中国南部で再び発生し、香港でも猛威をふるい始めた。そこへ原因を突き止めるために北里らが向かった。
当時、香港でペストがもっとも多く発生していた地区では、患者のいない家庭はないほどだった。香港政庁は該当する約一二、〇〇〇坪を封鎖し、区域内の患者と住人を強制退去させたのち、家屋を取り壊し、家具を焼きはらった。それしか対処の方法が見出せなかった。
そんな一刻の猶予もない壊滅的な状況のなかで、北里ら一行は到着するや病死した患者の解剖に急いで着手する。ところがいざ北里が顕微鏡で解剖標本をのぞくと、すでに腐敗が始まっており、雑多な菌が無数に増殖している。これでは埒(らち)があかない。
しかし北里には、経験に基づく作戦があった。それは「症状や臓器の変化を既知の伝染病と比較すること」。もし共通点があれば病原菌の性質も似ている可能性が高い。
改めて取り出した臓器を調べてみる。「なるほど炭疽(そ)症に近いぞ。あれは血液中に菌が入り敗血症を起こす。ペストの病原菌も同じではないか?」彼はペスト患者の血液を手に入れた。すると顕微鏡の視野に、特徴的な細菌が認められたのだ!
このときを境に、ペストという見えざる脅威は、目に見える病原菌へと姿を変えた。
こうなれば、ペストを防ぐには、その菌を調べていけばよい。そして加熱や消毒液への耐性といった性質や、推定される感染経路などが次々と明らかになっていく。家屋等の消毒や菌を運ぶクマネズミの駆除をはじめ、公衆衛生の対策がなされると、香港は落ち着きを取り戻していった。
その香港での発見から五年後、ついにペストが神戸に侵入し、大阪、さらに関東にまで感染が広がった。北里自身が制定に関わった伝染病予防法の下、さらなる感染拡大を防ぐため、自ら指揮をとり奔走する。そしてペスト伝播につながるネズミの駆除を徹底させ、終息に導いた。
一九二六年以降は、国内で一度もペストの発生を見ない。疫病は静まった。
一方このあと「発見者論争」が巻き起こる。

(監修:北里英郎 先生 北里大学医療衛生学部微生物学研究室 教授)

多くの犠牲者を出したペストの病原菌を発見

古くから人類を脅かしてきたペスト

北里柴三郎

北里柴三郎(1853-1931)
資料提供/学校法人北里研究所

(*1中川米造: 医療の文明史, 66-69, 日本放送出版協会, 1988より)

ペストが人類を苦しめてきたのは紀元前からという説があるが、その時代はデング熱や天然痘と混同されていた可能性も指摘される。しかしローマ時代にペストが流行したという記録には信憑性があるとみられる。それ以降はヨーロッパで流行を繰り返したが、11~13世紀には姿を消し、14世紀になって突然また大流行する。最も流行が激しかったのは1347~50年で、ヨーロッパの人口の3分の1となる2500万人の生命を奪ったという試算もされている*1。
この恐るべき疫病の病原菌を発見し、その防御への道筋をつけたのが、北里柴三郎だ。

中国南部で始まり香港で大流行したペスト

ジェームズ・ラウソン

ジェームズ・ラウソン
(James Lowson, 1866-1935)
イギリス人医師。香港政庁の医官。日本のペスト調査団に協力してペスト禍対策に尽力した。

(*2檀原宏文:ラウソンから見た北里柴三郎, 5, 北里柴三郎記念会報告 , 2012より)

18世紀を最後に、いったんは流行が途絶えていたぺストだが、100年以上のブランクを経た1894年、中国南部で流行を開始した。そして野火のように広がって香港に達し、ここで大流行の様相を呈する。香港といえば日本との貿易も盛んだ。このまま放置すれば、やがて横浜や神戸の港からペストが上陸してくるのは間違いない。日本政府は6名からなるペスト調査団を結成、北里もそれに加わった。一行は6月5日に横浜港を出発、1週間かけて12日に香港へ到着した。
当時の香港はイギリスの統治下にあったが、医官を務めていた医師、ジェームズ・ラウソンが現地の様子を、次のように日記に書き残している。
『植民地の住民がペストの流行にあってパニックとなり暴徒化していく様子は、荒れ狂う洪水を見ているようである。中国人の気持ちも理解できずペストの扱い方も分からない・・・夜の闇に乗じて患者は対岸の九龍半島に逃げ、病院からは中国人の医科大学生や雇人が集団で逃亡を始めた。』
現地は混乱の極みであった。*2

危ぶまれた香港での病理解剖

開戦前夜、秘密だった病理解剖

ペスト調査団一行は1894年6月5日に横浜港を出発し、1週間後の12日には香港に到着した。そのすぐ後の7月には日清戦争が勃発している、まさに開戦前夜のタイミングだった。香港はイギリス統治下とはいえ、住民の大多数が中国人であることを考えれば、日清両国が一触即発の状況下での行動は慎重であるべきだ。
しかし、さっそく大きな課題が持ち上がった。ペストの原因を突き止めるには、病死者の病理解剖が必須となるが、中国住民にとって死体解剖は死者への冒とくと考えられており、これを大っぴらに行えば、暴動の種になりかねない。
幸い香港政庁は協力的だったため、ケネディタウン・ホスピタルという伝染病専門病院の片隅の小屋を解剖室として貸してくれた。小屋はペストで死んだ患者を葬る墓所の近くにあり、墓所へ運ぶ棺を、いったん小屋に運び入れて解剖するのだ。この病院の患者はヨーロッパ人と付き合いのある中国人が多かったが、それでも解剖していることは極秘だった。

ガラス工場を仮設病院とした施設に収容されたペスト患者

ガラス工場を仮設病院とした施設に収容されたペスト患者
香港には6軒の避病院(伝染病専門病院)があった。写真はケネディタウン・ホスピタルとは別の病院。
(梅澤彦太郎:近代名醫一夕話, 日本医事新報社 , 1937 より改変)

劣悪だった解剖室の環境

青山胤通(1859-1917)
東京帝大医科大学内科学教授、附属病院長、学長などを歴任。

6月14日、病理解剖は8畳程度の狭い小屋で始められた。外から見られないように窓も入り口も閉め切っており、非常に暑かった。その中で病理学が専門の青山胤通を中心に、棺桶のフタを解剖台代わりにして解剖を行った。解剖に必要な水も人目を忍んで小屋に運び入れ、使用後の水は血液のにおいや色をごまかすため、タールを混ぜて捨てた。

青山胤通の解剖室(人目につかない倉庫のような部屋)

青山胤通の解剖室(人目につかない倉庫のような部屋)
香港には6軒の避病院(伝染病専門病院)があった。写真はケネディタウン・ホスピタルとは別の病院。
(梅澤彦太郎:近代名醫一夕話, 日本医事新報社 , 1937 より改変)

短時間で病原菌を発見するために、知識と経験を生かす

北里が香港で使用した顕微鏡

香港保健省に展示されていた顕微鏡
北里が使用した顕微鏡として展示されていたもの
資料提供/学校法人北里研究所

炭疽症
炭疽菌 (Bacillus anthracis)の感染による人獣共通感染症。土壌中に生息あるいは芽胞として存在し、汚染した草を食べることによりヒツジ・ウシ・ウマなどに感染、血中に入り敗血症を起こす。ヒトへの感染は少ない。炭疽菌は北里の師匠であるドイツのコッホが1876年に純粋培養に成功し、病原性を証明した。

既知の伝染病との共通点を見つける

青山らが解剖した内臓や組織などの病理標本は、すぐに北里のもとへ運ばれ、彼はさっそく顕微鏡で標本を調べた。しかし内臓にも、血液にも、無数の微生物が分布している。標本は死後11時間が経過しており、蒸し暑い環境の中で、すでに腐敗が進行していたのだ。これでは、いくら時間をかけても研究は終わらない。
しかし北里は、あらかじめペストの病原菌を効率的に突き止める作戦を練っていた。彼は香港から帰国した後、講演でその手の内を披露している。
「不明の伝染病について原因を調査するときは、すでに原因が分かっている病気と比較して、そのどれに最もよく似ているかを、まず考えます。そうしたときペストという病気は、病理解剖的にみて、炭疽(そ)症にいちばん似ています」。

ペストは炭疽症との類似点が多い

彼がペストの症状や病理所見と共通性が高い伝染病として、思いついたのが炭疽症だ。臓器や組織の変化、とくに脾(ひ)臓やリンパ腺の腫れが酷似している。炭疽症を診断するには、患者の血液中に炭疽菌が存在するかどうかを見るのが一番だ。当時、生体の血液中に発見される微生物は、炭疽菌と、回帰熱の原因となるスピロヘータぐらいであった。「ペストの病原菌が炭疽菌と似ているのなら、患者の血液中に存在する可能性が高い」。そしてその推理は見事に的中したのだ。

世界に発信された北里のペスト菌発見

患者の血液中にペスト菌を見いだす

The Lancetに掲載されたペスト菌発見の速報

The Lancetに掲載されたペスト菌発見の速報
(Kitasato S:The Lancet 8, 11,325, 1894 より)

彼はペスト患者たちから採取した血液を顕微鏡でのぞいた。すると、特徴的な形の細菌が認められた。生きている人間の血液に入り込む細菌は、病原菌以外に発見されたことはない。ペスト患者の血液中に未知の細菌が存在するのなら、それはペストの病原菌に違いない。危ぶまれたペスト菌の発見は、北里が研究に着手した6月14日のうちに成し遂げられたのだ。この成果は、「コッホの4原則」で病原菌としての確定を済ませた6月18日に公表された。またその内容は、速報としてイギリスに送られ、著名な医学専門誌「The Lancet」の8月11日号に掲載されると北里の成果は世界に知れ渡った。

調査団に襲いかかるペスト

晩餐会の後にペストを発症

6月28日、日本のペスト調査団は、香港政庁関係者や現地の医学関係者をホテルに招き、感謝の晩餐会を開いた。しかし祝宴が終わった後、異変が起きた。
まず青山が、わきの下の激痛を訴えた。腋窩にはリンパ腺があり、腺ペストが疑われた。さらに日付が変わった深夜、北里の研究所から調査団に加わった石神亨がペストの症状を示した。青山も石神も高熱を発しており、容態は悪くなる一方だ。翌日には二人とも病院船に移され、本格的な治療を受けた。だが青山は肺炎に心不全を併発したため、7月3日には棺桶が用意された。石神は病院船に移されたとき、薄れていく意識の中で覚悟を決め、妻にあてた遺書を4時間もかけて、形の定まらない字で書いた。そして書き終えたあと人事不省に陥った。
しかし結局は二人とも、幸運なことに命を取り留めた。だが彼らを手伝っていた現地の日本人医師は、不幸の転機を遂げてしまった。

(檀原宏文:ラウソンから見た青山胤通と石神亨, 3-12, 北里柴三郎記念会報告 , 2012より)

福澤が、馬を走らせて北里の召還を要求

「調査団にペストが発生」のニュースは、すぐ日本に伝えられた。これにすばやく反応したのは福澤諭吉だ。彼は北里を見込んで自らの資産をつぎ込み、最初の伝染病研究所を提供した人間だ。それ以来、常に北里を擁護する後見人のような役割を果たしていた。
福澤はペスト調査団のうち2名が発症したという知らせを旅行先で聞くと、すぐに帰京し、馬を駆って内務省その他の関係筋を回り、北里を召還するように要求した。また自ら北里に「スグカヘレ」の電報を出した。「北里を殺してはならぬ。学問のために大切な男だ。」とつぶやく福澤の様子は、まさに愛児の安否を気遣う親のようであったという。

しかし北里には、すぐ日本へ帰ろうという気などなかった。彼はすぐにペスト菌の性質を調べ、ペストのまん延を食い止めることが、すべてに優先されるのだと考えていた。

(宮島ら:北里柴三郎傳, 157, 北里研究所 , 1932より)

菌の性質を調べ、ペストのまん延をくい止める

消毒やネズミの駆除が功を奏する

芽胞
特定の菌が作る細胞構造の一種。生息環境が増殖に適さなくなると、菌体内に形成される。芽胞は加熱や乾燥などの過酷な条件に対して強い抵抗性を持ち、発育に適した環境になると、 発芽して本来の形の細胞となり、再び増殖する

北里はペスト対策に活用するため、病原菌の性質を調べ始めた。まずペスト菌には芽胞がない。芽胞がある菌は抵抗力が強いが、ない菌は消毒が効きやすいはずだ。彼は、いろいろな消毒法を試してみたが、見込み通り、一般的な消毒法で容易に死滅することがわかった。

消毒薬
0.5%の石炭酸または1%の石灰液に漬けておけば2時間程度で死滅する。
熱による消毒
70~80℃の温度では25~30分程度で死滅する。
日光による消毒
直射日光にあてておけば3時間程度で死滅する。

香港でのペスト患者の推移

香港でのペスト患者の推移
6月をピークに患者数・死亡数とも急速に減少している。
(檀原宏文:ラウソンから見た青山胤通と石神亨, 10,
北里柴三郎記念会報告 , 2012より)

ペスト患者の家からは、ネズミの死骸が大量に発見された。そこで死にかかっているネズミを捕獲し、採血して調べると、ペスト患者と同様に血液中からペスト菌が発見された。ネズミが伝染に関わっている可能性がある。
このことを香港政庁に伝えると、ネズミの駆除を中心に、家屋や土壌の消毒などが実施され、香港のペストは急速に終息へと向かっていった。

日本のペスト対策にも生かされた香港での経験

日本に上陸したペストを最前線で迎え撃つ

香港で猛威を振るったペストは5年後の1899年、ついに神戸に上陸した。だがこの事態を予測した北里は、すでに防御策を講じていた。まず伝染病予防の大切さを担当大臣や役所に説いて回り、1897年に「伝染病予防法」を成立させた。そこには彼の主張通り、上下水道の整備、患者の隔離、地域の消毒、船舶や列車の検疫など必要な条項が網羅されていた。そしてこの年、1899年には北里の建議により「開港検疫法」にペストが追加された。

ネズミの駆除が効を奏する

ペスト菌の宿主とされた印度蚤

ペスト菌の宿主とされた印度蚤
(北里柴三郎:ペストと蚤の関係に就て, 東京市役所, 1909より)

ペストは、もともとネズミの伝染病で、ノミを介してネズミからネズミへと流行を拡大する。日本で発生したペストも、香港や中国本土からの貨物船によって運ばれたネズミとノミが持ち込んだものと考えられる。北里はペストの発生地域で、病人の隔離治療や消毒をする一方、ネズミの駆除を徹底的に実施した。ペスト発生地のネズミには、日本に存在しなかった「印度蚤」という種類のノミがみられ、これがペスト菌の運び屋と考えられた。もしこのノミがイエネズミから、山野のネズミの仲間(げっ歯類)に広がったら、根絶はきわめて困難になる。しかしネズミの駆除作戦は効を奏し、27年間で2420人の犠牲者を出しながらも日本のペストは終息した。

日本を「ペストのない国」にした北里

現在、ペストが発生しているのはアジア、アフリカ、南米に加え、北米大陸も含まれる。北米では、ペスト菌がリスやプレーリードッグなど山のネズミ類にも感染してしまったので、根絶は困難なのだ。それに対し、日本では山のネズミ類にもペスト菌は認められない。日本のペストは根絶されたのだ。日本が「ペストのない国」となったのは、ペスト菌の発見者である北里柴三郎や、彼の指導下でネズミの撲滅作戦に動いた、当時の日本政府によるペスト防御対策の功績だといわれている。



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