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一八九四年の香港で、初めて発見されたペスト菌。そこへ至る二つの足跡がある。
中国南部で約一〇〇年ぶりに人類の前に現れたペストが香港まで達したことを、日本にいた北里柴三郎は同年四月に現地からの電報で知る。明治政府は北里を中心とする調査団を結成、六月五日に横浜を出港し、同月一二日に香港へ到着。
香港政庁の医務官と面会し、場所の便宜など調査の手はずを整えてもらう。
同月一四日に調査を開始する。
同じ頃、ペスト調査のために香港に派遣された男がもう一人いた。フランス政府とパスツール研究所の要請を受けた、アレクサンドル・エルサン(A. Yersin)。
彼はサイゴンでパリからの電報を受け取った。いわく、香港に行き、その原因を見つけよと。彼はその地で若干の医療機器を借用し、六月半ば、船で香港に降り立った。
エルサンは北里らとは別の病院の近くに、二日間で簡単な宿泊所兼調査小屋を協力者に建ててもらい、その中に野戦病院用のベッドを持ち込んで解剖台とした。
数日遅れでエルサンも調査を開始する。
ドイツのコッホ研究所で、破傷風菌の純粋培養に成功し世界的名声を挙げた北里。
一方フランスのエルサンは、ジフテリア毒素の研究でその名を知られていた。
世界的に権威のある微生物学の研究所出身者が、同じ目的で香港に居合わせる。
この状況でお互いを意識しないのは難しい。
北里は調査開始の当日、病原菌と思われる細菌を患者の血液および脾臓に見つける。六月一八日に病原菌を確定、一九日に内務省宛に病原菌発見を打電。
七月七日にはコッホの研究所にドイツ語論文そして発見した菌株を発送した。
また、発見の旨はイギリスの医学誌の八月二五日号に発表された。
では、エルサンはどうだったか。独自の調査で、北里の発見から遅れること約一週間後に菌を確認する。つまり、二人ともペスト菌を見つけたのだ。
しかし、ここに謎がある。先に発見したのは北里であるが、三年後の万国衛生会議では、「北里エルサン菌」と呼ばれた。さらには、ペスト菌の学名は七三年後の一九六七年、国際微生物学協会連合の公的機関誌(IJSEM)に、エルサンの名にちなんだ「エルシニア・ペスティス」と記載され、北里の名は残っていない。実はこの間に紆余曲折があったのだ。

(監修:北里英郎 先生 北里大学医療衛生学部微生物学研究室 教授)

香港でペスト菌を発見した二人

ほぼ同時期にペスト菌を見つけた北里とエルサン

北里柴三郎

北里柴三郎(1853-1931)
資料提供/学校法人北里研究所

1894年6月14日、日本政府の命により香港へ渡った北里柴三郎は、現地到着後2日という驚くべき早さでペスト菌を発見した。しかし、ほぼ同時期に香港でペスト菌を見つけた研究者がいた。フランス国籍を持つスイス人、アレクサンドル・エルサンだ。フランス政府とパスツール研究所の要請を受けて香港へ行った彼がペスト菌を見つけたのは、6月20日とも23日ともいわれる*1。では、なぜ同じ時期に二人もの発見者が現れたのかというと、これ以前にはペスト菌を発見するチャンスが誰にもなかったからだ。

*1 エルサンのペスト菌発見は、自身の手紙では6月20日。香港政庁の医官ラウソンの日記では6月23日となっている。

忘れ去られていたペストという病気の解明に挑んだ北里

アレクサンドル・エルサン

アレクサンドル・エルサン
(Alexandre Yersin, 1863-1945)

*2 bubonic plague: リンパ節を腫大させる腺ペストの英語表記

*3 高木友枝:東京大学医学部卒。1893年に病院長の職を辞して伝染病研究所に入所。のちに阪神地区のペスト撲滅に尽力。

ヨーロッパでは、18世紀を最後にペストの流行はなくなっており、すでに消滅した昔の病気として医学校の教科書からも病名が削除されていた。日本でも状況は同じで、北里が所長を務める伝染病研究所の研究者でさえも、その名前を知らなかった。
1894年5月、香港領事から外務省に入った電報が、内務省に回ってきた。「香港ではビューボニックプレーグ*2が流行し、1日に何百人も死んでいる」。「ビューボニック…?」内務省の担当者にはわからない病名だったので、伝染病研究所へ問い合わせた。ところがその対応にあたった所員の高木友枝*3も意味がわからず、図書館で調べてやっと理解できたという。
中世に世界の人口を激減させるほど猛威を振るったペストの原因を、日本の学者の手で突き止めたら、どんなに素晴らしいだろう。高木に促された内務省の担当者は、異例にも直接内務大臣に「北里を中心とした調査団」を派遣するよう具申した。外務省が電報を受け取ってから1ヵ月足らずという早さで調査団は香港へと出発した。

ベトナムを探検中のエルサンにフランスから届いた依頼

エミール・ルー

エミール・ルー
(Emile Roux 1853-1933)

パスツールが研究所の中で最も信頼していた微生物学者。研究所の2代目所長に就任。

スイスに生まれたエルサンは地元で理学を修めた後、フランスでも医学を学んだ。臨床医学や病理学にも興味を示したが性格に合わず、予防医学を学ぼうとパスツール研究所に入所した。またドイツのロベルト・コッホによる講習会で病原微生物学も修め、コッホ学とパスツール学の比較にも取り組んだ。そして1889年にはパスツール研究所のエミール・ルーの助手としてジフテリア毒素を単離した。
しかしその翌年、彼は突然パスツール研究所を出て仏領インドシナ(現ベトナム)へと渡ってしまう。そして1894年、香港で起きたペストの原因を解明するよう、フランス政府とパスツール研究所から要請があり、彼は家僕1人を連れただけで香港へ向かった。

竹とワラの小屋で研究しペスト菌を見つけたエルサン

香港に到着しても何の伝手もない状態のエルサンに、現地のイタリア人神父が協力を申し出た。神父は竹とワラでできた小屋を建て、ペスト患者の死体を手配し、研究材料としてエルサンに提供した。またパスツール研究所からは、ルーがエルサンに研究上の指示を出した。このような周囲のサポートがあって、エルサンもペスト菌を見つけることができたのだ。

エルサンがペストの研究をした小屋

エルサンがペストの研究をした小屋

地の利も味方した二人のペスト菌発見

北里とエルサンが世界に先んじてペスト菌の発見者となった理由は、細菌学者としての力量が抜きんでていただけではない。北里は日本を出発して1週間で香港に到着し、その2日後にペスト菌を発見している。一方、仏領インドシナ(現ベトナム)のサイゴンを探険していたエルサンも3日間で香港に着き、5日または8日後にペスト菌を見つけている。つまり二人とも、行動を起こしてから10日間前後でペスト菌を見つけているのだ。当時、細菌学のメッカはヨーロッパであったが、船旅しか手段がなかった当時、香港を植民地支配するイギリス政府でさえ、組織だった調査団を短期日で香港に派遣するのは不可能であり、アジア東部にいた二人がペスト菌の発見者となったのには、地の利も大きく影響したものと考えられる。

北里とエルサンの出身研究所の違いが際立った太平山地区

食い違った北里とエルサンの見解

香港で最もペストが集中的に発生したのは「太平山地区」と呼ばれる貧民街だった。香港政庁は、その中でも最悪の区域を囲って封鎖し、住民を強制退去させて家屋を取り壊した。その後、その区域を再開発するため、土壌が汚染されていないか、北里とエルサンに意見を聞いたところ、北里は「汚染なし」、エルサンは「汚染あり」という回答だった。そしてエルサンは「ただしこのペスト菌に病原性はない。しかし土壌は間違いなくペスト菌に汚染されている」という、難解なコメントを付け加えたのだ。香港政庁は北里の意見を取り入れ、土壌の入れ換えなしで太平山地区の再開発を進めることに決定した。

コッホ研究所とパスツール研究所の体質の違い

かつて北里はドイツのコッホ研究所で、エルサンはフランスのパスツール研究所で微生物学・細菌学の研究に取り組んでいた。コッホは細菌を純粋培養することにより、細菌と病気との関係を明らかにし、「病原菌」の概念を確立した。医師である彼が細菌を見るときの大きな物差しは「病原性」の有無だった。
一方パスツールはコッホより前の時代、つまり「病原菌」の概念がない時代に、牛乳が酸っぱくなったり、ワインやビールが発酵したりするのが微生物の働きであることを明らかにした。化学者である彼の目は、微生物が物の形や性質を変化させつつ、自らも変化する姿を追っていた。わずかな菌の変化が発酵食品の味や風味を大きく変えるのは、よく経験されることだ。さらに羊などの家畜に病気を起こす炭疽菌や鶏コレラ菌の培養を何代も繰り返したときに病原性が弱まっていく弱毒化現象も見つけており、研究員たちも、そのことは知っていた。エルサンは、太平山地区のペスト菌にもこのような弱毒化が起こったと考えた可能性がある。

エルサンの仮説は成立しうるか

「太平山地区の土壌に病原性のないペスト菌が存在する」というエルサンの見解が的はずれであったのかどうか、現在では確かめようもないが、最近の研究によれば、病原性のないペスト菌の存在は確認されている。ペスト菌の病原性は、プラスミドというDNA(核外遺伝子)に依存しており、そのプラスミドが細菌から脱落してなくなると、ペスト菌そのものも病原性がなくなったり、弱毒化することが観察されている。エルサンの仮説も、成立する可能性は充分にあるのだ。

ベトナムのために後世をささげたエルサン

インドシナ独立運動にも参加

香港での任務を果たし仏領インドシナに戻ったエルサンは、現地に私立研究所を設立した(1904年にはパスツール研究所となる)。また1897年にペストの予防・治療に役立てるため抗血清を作り臨床試験にかけたが、これは失敗に終わった。1902年には医学教育の必要性を訴え、ハノイ医科大学の設立に尽力した。そしてフランスからのインドシナ独立運動にも参加した。



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