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医療の挑戦者たち 35

ペスト菌の発見④

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日本人の歴史的偉業、知られざる真実。

人類を脅かし続けてきたペストの病原菌は、一八九四年(明治二七年)六月一四日、流行下の香港で北里柴三郎が発見し、滞在中にまとめた論文が英国の著名な医学誌ランセットに掲載される。そして、翌週、同じく香港でフランスのアレクサンドル・エルサン(A. Yersin)も見つけ、彼の論文はフランスのパスツール研究所年報に掲載された。
しかし、北里の発見についての話は二転三転する。
彼は日本に持ち帰った分株菌をさらに詳しく調べ、結果を発表する。その性質の一部はエルサンや他の学者たちのものと違っていたため、「北里が主張する菌はペストの病原菌ではない」とする論文が出され、真偽が問われたのだ。
(持ち帰る際に他の菌で汚染されてしまったという説がある)
しかし、幸いなことに北里はもう一つの分株菌をドイツのコッホ研究所に送っていた。
それを検証するとまぎれもなくエルサンと同一の菌だった。一八九七年、ベニスで開催された万国衛生会議でその結果は報告され、二人が共に発見者と認められた。
ところが、日本で行った北里の研究結果に対する論争はさらに続く。
一八九九年、ペストが日本に初めて上陸した時に改めて菌を調べた北里は、自ら主張した性質の誤りを認めることになる。それだけでなく、万国衛生会議で発見者として認められた事実さえも、主張しなくなってしまった。この後も、北里を発見者として認めるか否かを問う議論は、ときおり蒸し返された。一九六七年にペスト菌が属する細菌群が再分類されることになった。その機に、ついには新しい学名は「エルシニア・ペスティス」とされ、エルサンの名前だけが付けられてしまう。
この経緯を知ったカリフォルニアのふたりの研究者は、北里の発見の真実は明らかにされるべきだと考え、関係する膨大な論文や記録、当時の研究環境なども含め精査し、徹底的に分析を行った。発見の真偽に焦点を当てた調査の結論は、「北里は確かに香港でペスト菌を研究し、論文の大部分は的確に特徴を記載しており、彼にもその発見の栄誉を与えるに十分である」というものだった。この総括的論文は、一九七六年(昭和五一年)、アメリカ微生物学会の機関誌に発表され、北里の発見の事実をめぐる論争に終止符が打たれた。なんと香港の発見から八二年後であった。
ペストは、中世ヨーロッパの経済や文化にまで大きな影響を及ぼし、世界で一億人をはるかに超える死者を出した、人類史上最大の脅威だった。二人の挑戦者が成し遂げたその病原菌の発見は、世界の医学史に残る偉業である。そして、学名にこそ名を残してはいないが、その最初の発見者が日本人の北里柴三郎だったことは、疑う余地もない事実なのだ。

(監修:北里英郎 先生 北里大学医療衛生学部微生物学研究室 教授)

香港でペスト菌を発見した二人

それぞれペスト菌発見の論文を発表した北里とエルサン

北里柴三郎(1853-1931)
資料提供/学校法人北里研究所

アレクサンドル・エルサン
(Alexandre Yersin, 1863-1945)

1894年6月14日、北里柴三郎は香港でペスト菌を発見した。イギリスの著名な医学誌「The Lancet」は8月11日号にその速報を、さらに同月25日号には北里自身の論文を掲載した*1。北里よりやや遅れ、6月20日または23日*2に香港でペスト菌を見つけたのは、フランス国籍を持つスイス人、アレクサンドル・エルサンだ。彼は古巣であるフランスのパスツール研究所に論文を送っており、それは9月に同研究所の年報に掲載された。*3
過去に二度のパンデミック(世界的大流行)を起こし、1億人を優に超える犠牲者を出した伝染病ペストは、この三度目の大流行で、ついにこの二人の研究者により正体を暴かれたのだ。これによりペスト菌は「キタサト・エルサン菌」とも呼ばれるようになった。

*1 Kitasato S: The Lancet 25, Aug.1894
*2 エルサンのペスト菌発見は、自身の手紙では6月20日。香港政庁の医官ラウソンの日記では6月23日となっている。
*3 Yersin A: Annales de l’Institut Pasteur, 1894, 9, 1894

陰性か、陽性か、グラム染色論争

顕微鏡での観察を容易にするグラム染色

グラム染色された細菌
グラム陽性の黄色ブドウ球菌は紫色に染まり、グラム陰性の大腸菌はピンク色を呈する。

光学顕微鏡で細菌を見るとき、多くの細菌は透明に近いこともあり観察は容易ではない。そのため、あらかじめ細菌標本を染色して見やすくすることが行われる。その染色法の代表格として、デンマークのハンス・グラムが考案したグラム染色がある。グラム染色で紫色に染まる菌は「グラム陽性」、染まらない菌は「グラム陰性」と分類される。
そして世界の微生物学界を巻きこんだ混乱は、ペスト菌がグラム陽性か陰性かをめぐる北里とエルサンの意見の違いから始まった。

ペスト菌発見時に「グラム陰性」を報告したエルサンと保留した北里

エルサンは1894年のペスト菌発見を報告した論文中で「ペスト菌はグラム法によって染色しない」と述べている。
これに対し、北里はペスト菌発見時の論文では「グラム染色に関して今は言及できないが、その点については後日報告したい」とした。その理由は明確ではないが、北里はグラム染色液を香港に携行しなかったのではないかともいわれている。そうだとすると、もし北里が染色液を持って行っていたら、その後の混乱は回避できたのかもしれない。

エルサンの論文

エルサンの論文:「グラム法では染色されない」と書かれている

北里の論文

北里の論文:「現時点でグラムの二重染色法により染色できるかどうかは言及できないので後日報告する」と書かれている

北里は「グラム陽性」を主張したが、やがて取り下げる

ペスト菌を発見してから2年後の1896年、北里はついにグラム染色について結論を出す。12月に行われた東京医学会において「ペスト菌はグラム陽性である。エルサン菌はグラム陰性であるので、自分のペスト菌とは異なる。どちらが真性ペスト菌であるか、第三者の公平な決定を待ちたい」と報告したのだ。しかし、まさにその12月、台湾でペストが発生した。届けられた台湾のペスト菌をただちに調べると、それはエルサン菌と同じグラム陰性であり、北里が主張するグラム陽性ではなかった。やがて「北里菌は本当にペストの病原菌なのだろうか」という疑いが、ささやかれるようになった。
やがて1899年になると神戸にもペストが上陸。北里は自分の目でペスト菌がエルサンの主張どおりグラム陰性であることを確認し、その年のうちにグラム陽性の「北里菌」説を取り下げたのだ。

両者の菌は同一のペスト菌であることが証明される

しかし1897年、エルサンと北里の菌は、全く同じペスト菌であることが証明される。ドイツの細菌学者ウィルヘルム・コッレ(Wilhelm Kolle)は、北里とエルサンが香港でペスト菌として採取した標本、そしてその後世界各地で集められたペスト菌を細かく分析した。その結果、北里菌もエルサン菌も同じグラム陰性のペスト菌であり、また世界中のペスト流行地で集められた菌とも同一のものであることを証明した。北里の「ペスト菌はグラム陽性」という主張は退けられた形だが、北里がペスト菌の発見者だということは証明された。この結果は、その年に開催された万国衛生会議でも報告され、北里とエルサンは共に発見者であることが認められた。また後に、コッレ以外にも2人の研究者が同様の確認を行ったが、結果は同じであった*4

*4 1897年にドイツのアベル、1900年に日本の佐田愛彦が確認研究を行った。

万国衛生会議の記録

万国衛生会議の記録では、北里とエルサンにより単離された菌はペスト菌として一致し、それはまたムンバイやロンドンで分離されたペスト菌とも一致すると述べられている。また注釈(1)にコッレの文献名も記載されている

くすぶり続けた「エルサンだけが発見者」説

万国衛生会議の記録により、北里への疑いは晴れたと思われた。事実、その後に発行され、多くの文献でも引用されているレーマンとノイマンの細菌学マニュアル*5にも、「ペスト菌」の項には発見者として北里とエルサンが併記されている。
だがエルサンだけを発見者とする主張が消えることはなかった。1926年、フランス・パスツール研究所のラグランゲは論文のなかで「北里は極東地域の国際会議に参加し、ペスト菌の発見者はエルサン単独であると敬意をもって公表した」と記述した*6。これはもちろん事実ではないが、ヨーロッパの多くの研究者に影響を与えたといわれている。

*5 Lehmann KB, Neumann RO: Manuel de Bactériologie, 1913
*6 Lagrange E: L. Trop. Med. Hyg., 29, 1926

ペスト菌の新しい学名がエルサンにちなんだ名称に改められる

ペスト菌の当初の学名は「パスツレラ・ペスティス」

当初、ペスト菌の学名は「パスツレラ・ペスティス(Pasteurella pestis)」とされた。学名は「リンネの二名法」に従い、属名(Pasteurella)+種形容語(pestis)で構成される。一つの属には、通常複数の微生物が属している。パスツレラは微生物学の開祖といわれるフランスのルイ・パスツールにちなんだ属名で、1880年に彼が単離したニワトリコレラ菌もパスツレラ属だ。ペスト菌もそれに近い種として、当初はパスツレラ属に分類されていた。
学名はいったん決められると変えることはできない。しかし分類を見直す必要が生じ、新たな属名を付けられた微生物は、新たな学名に変更されることになる。

分類の変更により学名が「エルシニア・ペスティス」に変えられる

1966年、学名変更に動き出したのは、フランス・パスツール研究所のモラレ*7教授を中心とするグループだ。彼らはパスツレラ属に分類されている6種の細菌を、パスツレラ、エルシニア(Yersinia)、フランシセラ(Francisella)の3つの属に分類し直すべきだと主張し、微生物の分類や名称を決定する国際委員会に提案した。この案は翌年可決され、1967年の機関誌に掲載された*8。その結果ペスト菌の学名は、エルサンにちなんだ「エルシニア・ペスティス(Yersinia pestis)」に改められたのだ。この決定が、「ペスト菌はエルサンが発見したもの」という印象をさらに増強するようになったことはいうまでもない。

*7 Henri Mollaret(1923-2008) フランスの医師・生物学者。パスツール研究所の教授として微生物学チームを率いる一方、エルサンに関する伝記や論文等の著作も残した。
*8 Mollaret HH et al.: Int J Syst Bacteriol 17, 263-266, 1967

82 年間の経緯を総括し、北里の名誉を回復させたアメリカの論文

客観的・多面的に分析を加える

1976年、北里のペスト菌発見をめぐる不明瞭な状態は、意外な形で決着する。いままで活発な論議を繰り広げていたヨーロッパでも、日本でもない、アメリカの研究者が詳細な論文を発表したのだ*9。サンフランシスコ陸軍研究所のビベルとカリフォルニア大学のチェンは、19ページを費やしこの問題に第三者的な立場から分析を加えた。
香港での活動内容、ペスト菌発見時の状況、発見時の論文の対比、意見の対立、矛盾点の確認と問題点、細菌学上の分析、検体汚染の可能性、北里の再評価、臨床的応用など、多項目にわたり客観的な検証と評価がなされている。その結果エルサンと同様、北里も香港でペスト菌を発見したことに間違いないと結論づけた。
この論文は、この問題に関する報告の事実上の決定版とされており、北里はペスト菌の発見者として確定されている。

*9 D. J. Bibel, T. H. Chen: Bacteriological Reviews, 40, 1976

北里への敬意と評価

この論文は、全体的に客観性・科学性を重視した論調となっているが、章の終わり部分などに下に挙げたような、著者としての北里への評価、あるいは敬意といったものが垣間見られる。

「北里がペスト菌を分離し、研究し、的確に特徴を記載したことに私たちは疑いを持たない。彼への信頼は否定されるべきではない」。

「彼の論文のほとんどの部分は細菌の正確な記述であり、この記載だけをもってしても、西欧科学界が北里にエルサンとともに発見の栄誉を与えるに十分である」。

「ペストの診断に対する北里の貢献とその歴史は重要であり、北里の業績は永遠のものである」。

「北里菌」とは何だったのか

なぜ「北里菌」はグラム陽性だったのか

最後に、最大の問題に触れなければならない。エルサンが「ペスト菌はグラム陰性」という結論を出したのが分かっているのに、なぜ北里は2年も後になって「グラム陽性」を主張したのだろうか。その答えとして多くの文献は、日本に持ち帰った細菌標本が他のグラム陽性の菌で汚染されていたからだと主張している。しかし違う見方をする意見もある。ここで北里大学名誉教授・檀原宏文氏の説をエッセンスの部分だけ紹介しておこう。

「グラム陽性のペスト菌もある」という言葉

日本へ戻った北里は、香港から持ち帰った多くのペスト患者の血液標本をグラム染色した。するとグラム陰性の「エルサン菌」以外に、グラム陽性の菌もあることがわかった。香港調査団に参加し、現地でペストにかかって敗血症を起こした2人の日本人の血液からも、グラム陽性の菌が出てきた。「グラム陽性のペスト菌もある」とはそのときの言葉で、北里は「これもペストの病原菌とすべきではないか」と考えた。
ペストに罹患すると、まず脾臓やリンパ節などの腺が腫れる。その腺を切開して組織を顕微鏡で見ると、「エルサン菌」が見られる。さらにペストが重症化し敗血症に進んでくると、血液中にも菌が出てくる。その血液を顕微鏡で見ると、エルサン菌と似てはいるがグラム陽性を示す菌が現れる。これはおそらく、ペストが重症化して抵抗力が衰えた患者に二次感染した、たとえばレンサ球菌などではなかろうか。ペストの本質を敗血症にあると考えていた北里は、自分が香港で発見したペスト菌を打ち捨てても、こちらの「北里菌」が重要だと考えたのだ。以上が檀原氏の見解のダイジェストだ。

北里らしい考え方

実際の診療を考えれば、ペストを診断するとき、いちいちリンパ節を切開するわけにはいかない。したがって患者の血液中の菌で診断しようというのは、より現実的な手法だ。またペストが進行すると結局は敗血症で死亡することが多いのだから、治療のことを考えれば敗血症を起こすとき増えてくる菌に注目するのも理解できる。学問的な結果としては報われなかったが、北里はつねに実際の診療や予防の役に立つ研究を心がけていたのだ。
その「実学」を重んじる北里の考え方が1897年の「伝染病予防法」、1899年の「開港検疫法」など、伝染病を予防するための法律の整備、さらにはネズミ駆除などによる感染経路の分断対策として生かされ、日本は「ペストのない国」となった。

>> 日本のペスト対策にも生かされた香港での経験

世界のペスト発生状況

歴史上3回発生したペストのパンデミックは、第1回が6世紀からの200年間、第2回が14世紀から18世紀まで。そして第3回は19世紀末に香港で発生し、まだ完全には終息していないとされる。予防法が普及している今日でも、ペストは発生し続けているのだ。このような国は、野生のげっ歯類動物の保菌によりペスト菌常在地域になっているとみられている。
近年、ペスト菌常在地域にも開発の手が伸び、人がペスト菌に接触する機会が増えてきたため、1991年以降ペストの発生は増加傾向に転じた。しかし万一ペストに感染した場合でも、抗菌剤が非常に良く効くため、早期に治療すれば死亡に至ることはまれである。

ペスト発生の国別報告数2000-2009年

ペスト発生の国別報告件数 2000-2009年(着色部分は当該国を示したもので、その国内での発生地域を指すものではありません)
CDC:全米疾病対策予防センターによる図を元に作成
(CDCウェブサイト: Reported Plague Cases by Country, 2000-2009)



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